本日、2月25日は大切な町田の未来を決める
町田市議会議員選挙&町田市長選挙ですね(^_^)
皆さんは、もちろん投票に行きましたよね。
大切な、国民の権利を大切に使いましょう。
それでは、今回は選挙のお話です。
現在の日本では、国民なら誰でも、
18歳になると選挙権が与えられていますね。
しかし、かつてはごく一部の人にしかその権利はありませんでした。
財産や性別などの差別なく、みんなが平等に投票できるようになるまでには、
努力と長い歴史があったのです。
1925年以前は、男子のみに選挙権が与えられていました。
しかし、納税の縛りがあり、
決められた高額な納税額を納めている一部のお金持ちだけが
有権者であったため、国民のほんの数%しか有権者は存在しませんでした。
しかも、現在のような秘密投票が実現したのは、1900年であり、
それ以前は公開制だったのです。(投票しずらいわ)
その昔、日清戦争・日露戦争・第一次世界大戦などの国を守る義務は、
財産の多い・少ないに関わらず、全て成年男子全体に課せられていたのです。
それにも関わらず、政治参加が認められるのは、一部のお金持ちのみでした。
そこで、命をかけて国を守っているのに、政治にはまったく意見を言えない事に疑問を持った人達が、
全国に普選運動を起こしたのです。(; ・`д・´)一揆じゃ!一揆じゃ!
各地で、あらゆる団体が集会やデモを行いましたが、
議会で普選案が否決されたり、政府の弾圧を受けたり、
普選運動自体が沈滞してしまったり、約30年の間、なかなか進展しませんでした。
1925年になると、加藤高明内閣が成立し、
ついに納税額によって制限される制限選挙から満25歳以上全ての男子に選挙権が与えられることとなり、
ここに初めて普通選挙が実現したのです。(長かった~(-_-;))
女性の選挙権はもっと、大変だった(;・∀・)
女性の選挙権獲得の道のり。
昔の日本では、社会参加は男性が行い、女性は男性を支えていればよいという考え方が普通でした。
これに不満をもった女性たちが、女性を一人前の市民として認知させようとする要求「婦人参政権獲得運動」が
第一次世界大戦(1914~1918)終了後、世界各国で盛んになりました。
日本で先駆け的役割を果たしたのは、
社会主義を柱に自由・平等・博愛に基づく平民主義・平私主義を唱えた堺利彦・幸徳秋水らの創設した「平民社」の女性たちです。
これに賛同した女性たちは、女性の解放のために何をすれば良いのかを皆で話し合いました。
試行錯誤の末、まず政治に関与しなければならないという結論に達し、
そのためには参政権を得ることが必要になったのです。
平塚雷鳥(ひらつからいちょう)を中心とした若い女性たちによって、
新しい女性を目指した文学集団である「青鞜社」が結成され、純文芸雑誌であった路線は、
しだいに婦人参政権獲得を目的とした啓蒙誌へと変更されていきました。
しかし、これに対し幾度とない発禁処分を受けることになり、参政権を得る運動は、全く思うように進みませんでした。
1920年(大正9)「新婦人協会」を結成、同会は治安警察法第5条改正案の衆議院通過(貴族院で否決)を手初めに、
母性保護・平等を要求した結果、ついに、治安警察法改正・婦人の政談集会参加と発起の許可という成果をあげることができたのです。
「市川房枝(いちかわふさえ)」は戦前・戦後の日本の婦人参政権運動(婦人運動)を主導しました。
しかし、彼女の努力も空しく、ここでもやはり参政権獲得には至らず新婦人協会は解散の結果に なってしまったのです。
その後1924年(大正13)婦人の政治活動団体が団結することによって、
婦人参政権獲得期成同盟会結成、翌年婦選獲得同盟と改称し運動は続行され、
1945年(昭和20)のポツダム宣言によってようやく婦人の参政権が認められたそうです。(アメリカの圧力でやっと…)
現代では、当り前にある選挙権。
しかし、私たちに与えられた一票はただの一票ではありません。
先人たちが、命を懸けて闘い勝ち得た、血と汗と涙の一票です 選挙権というものは、
それだけの重みがあるべきものなのです。赤紙が来たら、有無を言わさず戦地に赴き、人殺しに加わる。
そんな時代もあったこの日本での選挙権。
今は、私たちが、私たちの手で、私たちの代表を自由に選べるのです!
「一人の力では何も変わらない」と考える人がいるかもしれませんが、一人一人が声を上げれば、
私たちはムーブメントを起こすことができるということも、先人たちが証明してくれています。
現代の日本に先人たちの努力が胸に響いている若者がどれくらいいるのでしょうか?
本来ならば、棄権などできるはずないのです。
人間の尊厳をはっきりと示す時代を築いてくれた先人たちの思いを受け継ぎ、意思表示の一票を投じましょう!